大船渡・佐々木選手の件を”課題の分離”の視点で考えてみる
佐々木選手の件で外野が非常に騒がしい状況になっていますが、、、
私のスタンスとしては1991年の大野倫投手の件から、当時高校生だった私は、その点も含めて「高校野球の理想的な在り方」という高校の卒業論文を書いていたほどなので、そのときから今まで一貫して「高校生の将来を閉ざす恐れのある、投げすぎは極悪」というスタンスです。
(参考:大野選手の記事)
ですが、これの是非論は桑田真澄さんなど言うべき人がちゃんと言っておられますのでお任せするとして、ちょっとアドラーの「課題の分離」が頭に浮かんだので、その視点でつらつらと書いてみたいと思います。
アドラーの「課題の分離」という考え方では、ある事象について「それは自分の課題なのか」それとも「他人の課題なのか」を区分けし、もしそれが「他人の課題」であれば、自分の課題ではないのだから、そこに「土足で踏み込んではいけない」としています。
では、「自分の課題なのか、他人の課題なのか、そこを区別する判断軸は何か?」というと、「その課題に対して判断し、行動した結果、最終的な結末の責任はだれが負うのか」ということです。
今回の場合、課題は
「仮に佐々木くんの肘が壊れることになったとしても、チームメイトや地元の人や高校野球ファンの期待を優先させ、決勝戦で投げさせるのか」
というものですね。
で、その課題に対して「投げさせる」「投げさせない」という判断があるわけですが、
「投げさせた結果、佐々木選手の肘が壊れて、佐々木選手の将来を閉ざしてしまうという結末」
「投げさせなかった結果、戦力ダウンし、甲子園に出場できず、チームメイトや地元の人や高校野球ファンの期待に応えられないという結末」
という2つの「良くない結末」が生まれる可能性があります。
で、その良くない結末が生じたときに、その責任を取るのは誰なのか?という話です。
その結末の責任を取るというのは、うまくいかない結果が出たとしても、その結果によって生じる様々なことも含めて当事者として受け止める、ということだと思っています。
高校野球というのは所詮、高校生の課外活動なので、監督と選手は「先生と生徒」の関係にあり、生徒が先生の指示を押し切って行動する、という選択肢は実質ありません。
ですので、その結末の責任を取るのは、先生である監督です。
となると、世間で盛り上がっている本件、誰の課題かというと、大船渡高校の監督の課題です。いまいろんな人がごちゃごちゃ言ってますが、彼らはもし投げさせて佐々木選手の肘が壊れたとしても、一切責任は取ってくれません。おそらく無責任に散っていくだけです。
なので、「責任を取ることもない、他人の課題に土足で踏み込んでいる全ての外野の意見」、ましてや大船渡高校に苦情の電話をかけてくる輩の意見なんて、大船渡高校の監督はすべからくガン無視でOKです。
と、こんな自明なことを書きたくてポストしたわけではなく(笑)
ちょっとそこから踏み込んでみてですね、じゃあ「今は外野の人」が、本件を「自分の課題」にするためにはどうしたらいいのか?ということもちょっと考えてみたんですね。
「自分の課題にする」ということは、本件の当事者になり、「結果の責任を受け入れる立場になる」ということです。
まず、、、監督になるのは難しいですね。
ではそれ以外に当事者になる方法として何があるのかな?と思ったのですが、現実味があるのは、投げすぎ問題の「制度面改革」に関わるポジションかなと思いました。
一番ダイレクトなのは、「高野連の中の人になる」ですが、これはどうなんでしょう?コネが幅を利かせる世界で、なかなか入りにくいムラ社会かもしれませんね。
あとは主催の朝日新聞に入社して、甲子園運営の担当者になるとか。これも終身雇用な世界だからなかなか難しいかな^^;
ですが、「今後は佐々木クラスの選手を甲子園で見たい、でも選手生命を潰したくない」と本気で考えるのであれば、制度面をいじるしかありません。今回外野からいろいろ言っている人も、本気で取り組む気概があれば、本件を「自分の課題」とすべく、何度断られようとも、ぜひ高野連か朝日新聞の門をたたいていただければと願ってやみません。逆にいうと、そのような行動をとることで「自分の課題」にする覚悟がないのであれば、ごちゃごちゃ言うなって話です。
え?私ですか?
今の制度継続であれば、今回のように「投げさせるな=今回の監督さんの決断を断固支持」で終わり。
もし制度を変えるのであれば、私は元高校球児ではありますが高校野球は所詮部活の1つだと思っているので、甲子園みたいな派手なイベントはやめちゃって、アメリカのように体に負担をかけないリーグ戦方式にガラっと変えてしまえばいいんじゃない?と思っている派です(笑)
それがどんなものかは、また気が向けば書きたいと思います。