気ままに誤読録

著者の意図とは違うかもしれないけど、自分なりの気づきを「誤読」として紹介していく、そんな読書ブログです。

「母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記」を読んでなんともいえない辛さを感じた話

前回は介護における自立支援とは「依存先を増やすこと」であり、その真逆は「子が親の介護を全て抱え込むこと」という話を書きました。

で、今回のこの本は、後者の「子が親の介護を全て抱え込むこと」を近い状況に陥ったらどんなことになるのか、そのタイトルからも想像できるかと思いますが、介護する側が精神的に追い込まれ、ついに親に手をあげてしまった経験談を元にした、介護に関する「提言本」です。

 

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まずは著者の松浦さんが母に手を挙げるに至る様子を引用したいと思います。このように追い込まれていくのか、という描写が本当にリアルです。

 

自分が壊れるときは、必ず前兆がある。

今回の場合、前兆は、「目の前であれこれやらかす母を殴ることができれば、さぞかし爽快な気分になるだろう」という想念となって表れた。理性では絶対にやってはならないことだと分かっている。背中も曲がり、脚もおぼつかず、転んだだけで骨折や脱臼する母を私が本気で殴ろうものなら、普通の怪我では済まない。殴ったことで母が死んでしまえば、それは殺人であり、即自分の破滅でもある。が、理性とは別のところで、脳内の空想は広がっていく。

 

簡単だ。

拳を握り、腕を振り上げ、振り下ろすだけだ。

それだけでお前は、爽快な気分になることができる。

 

なぜためらう。ここまでさんざんな目に遭わせてくれた生き物に、制裁の鉄槌を落とすだけではないか。握る、振りかざす、振り回すーーーそれだけで、お前は今感じている重苦しい重圧を振り払い、笑うことができるのだぞ。

悪魔のささやきという言葉があるが、このような精神状態の場合、間違いなく悪魔とは自分だ。そのささやきは、ストレスで精神がきしむ音なのだ。

 

追い込まれてしまうことの怖さ、ひしひしと感じます。。。

 

ただこちらの本、「公的支援に頼らず全部自分の力だけで介護をした結果」の話かと思って読み始めたのですが、違いました。私の感想としては、最初は1人で始めたものの、それでも比較的早い時期から公的支援を受け始めたケースのように思えます。

 

ある時期から母のアルツハイマーがどんどん進み、公的制度による支援も受けながら介護の状況を整えても、さらに母の状況が悪化していくので、結局いたちごっこのような形になり、最後の最後、介護者である息子が精神的に追い込まれ、手を挙げてしまったというお話です。

 

なので、「公的制度を活用し、支援をちゃんと受ければそのようにはならない」とは言い切れない事例が示されている形なので、個人的にはちょっと、なんともいえない辛さを感じました。はっきりとした予防策があるわけではなく、支援を受けながらも、その都度の「今」を考えていくしかないんだろうなと。

 

ただ、著者の松浦さんが奮闘記をベースに「こうするのがよい」と非常にロジカルにまとめていただいているので、これも先日のこの本をあわせてバイブルとして置いていきたい本です。

 

内容が重いだけに、ブログとしては今日はこれくらいに留め、最後に、個人的に響いた松浦さんの言葉を引用して締めたいと思います。

 

もしも親孝行を、と考えているなら、認知症を発症する前にするべきだ。

 

認知症になってしまってからは、生活を支えることこそが親孝行となり、それ以上の楽しいこと、うれしいことを仕組んでも、本人に届くとは限らない。

 

逆に悲しい結果となることもある。