武器になる哲学(山口周)
最近では「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」などで有名なコンサルタント、山口周さんによる哲学本です。
哲学について私はほとんど無知といってもよい状態でしたので、この本を手に取りましたが、非常にありがたい本でした。
といいますのが、この本は山口さんが「今の我々にとって使えるか、使えないか」という判断軸でピックアップしたものですので、哲学を学ぶ際のありがちな挫折要因でもある「つまらなさ」が皆無なんですね。
ある説を唱えた人の生きた時代背景をとらえ、その人の意図することを整理し、それを現代社会に当てはめると、という1セットの流れが50トピック挙げられている形で、ほんと非常に有用だと思っています。
また、「今の我々にとって使えるか、使えないか」、「我々が良き人生を送るために参考になる考え方か否か」が判断軸なので、いわゆる「哲学以外の領域」も「有用な考え方」としてカバーされています。となると、個人的にはアドラーも入れてほしかったのですがそれは叶わず(笑)
で、これだけのボリューム、どうブログを書こうか迷いましたが、50のトピックから私が最も印象に残ったパート、「ハンナ・アーレント」と「スタンレー・ミルグラム」を取り上げたいと思います。
そして、今回紹介する話以外の48の哲学も非常に参考になるので、気になった方は読んでみることをオススメします!
【悪事は思考停止した「凡人」によってなされる】(ハンナ・アーレント)
ドイツ生まれのユダヤ人で、ナチス政権成立後にパリ経由でアメリカに亡命し、アメリカの政治学者となったハンナ・アーレント。
まず、彼女がアドルフ・アイヒマン(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たした人物)の裁判を傍聴したときに感じたことが、以下の本文中の引用になります。
アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。
「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。
「システムを無批判に 受け入れるという悪」というのはどういうことか。
通常、悪事というのは、
「悪いことを考えるやつがいて」
「その悪い奴が悪いことを実行する」
というふうに我々が考えがちですが、
アーレントの主張はそうではなく、
「意図することなく受動的になされる悪事にこそ、悪の本質があるかもしれない」
ということですね。
つまり、
人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの 「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ(本書より抜粋)
ということです。
この考え方、今の社会に照らし合わしてみてるとどうでしょう?
すぐにピンときませんかね?
私がすぐに思い浮かんだのは、様々な企業等の団体で発生する不祥事。この構造がぴったり当てはまるのではないでしょうか。
悪事が起こるメカニズムというのは、まず「悪いこと」を考える人がいることが前提ですが、実際にそれを「悪事」に発展させるのは、それを無批判に受け入れ、実行してしまう人たち。
そんなアイヒマンのような人を「思考停止した凡人」とアーレントは表現していますが、ここで我々が注意しなければならないのは、
「誰でもアイヒマンのようになる可能性がある」
ということ。
だからこそ、「思考停止してはならん」というのがアーレントの主張。
私自身もアイヒマンになる可能性がある、と考えるとちょっと恐ろしいですが、
だからこそ自分の頭で考え続けていきたい
と思いました。
【権威への服従——人が集団で何かをやるときには、個人の良心は働きにくくなる】(スタンレー・ミルグラム)
続けてミルグラムを取り上げたのは、先ほどのアーレントの話は、このミルグラムの話とセットで理解しないと、その理解に深さが出ないからです。
ミルグラムといえば、あの有名な、椅子に括りつけられている人に電流を流すスイッチを入れる「アイヒマン実験」を行った人ですね。権威のある人にコントロールされた状況で、人はおそろしく残酷な手段を遂行してしまう、そういう人間の本性が暴かれたあのお話です。
まず話の前提として、このミルグラムの実験結果の普遍性について、ある国、ある時代特有の話ではないことを、本文中の言葉から引用しておきたいと思います。
ミルグラムによる「アイヒマン実験」は1960年代の前半にアメリカで実施されたものです。この実験はその後、1980年代の中頃に至るまで様々な国で追試が行われていますが、そのほとんどがミルグラムによる実験結果以上の高い服従率を示しています。つまり、 この実験結果はアメリカに固有の国民性やある時代に特有の社会状況に依存するものではなく、人間の普遍的な性質を反映していると考えるべきだということです。
話の中身に入りますと、まずこのような残酷な実験結果、具体的には被験者が「死んだのではないか?」状況まで電流を流す結果になってしまったのか。
一つ考えられ る仮説は
「自分は単なる命令執行者にすぎない」と、
「命令を下す白衣の実験担当者に責任を転嫁しているから」
ということ。
実際に、多くの先生役の被験者は実験途中で逡巡や葛藤を示すものの、何か問題が発生すれば責任は全て大学側でとるという言質を白衣の実験担当者から得ると、納得したように実験を継続したそうです。
そこで次にミルグラムが立てた仮説が、
「自らが権限を有し、自分の意思で手を下している感覚」の強度は、
非人道的な行動への関わりにおいて決定的な影響を与えるのではないか。
ということ。
そしてミルグラムはそれを検証する実験を行ったのですが(実験内容は紙幅をとるので割愛)、その結果、仮説が正しいことを示す結果が出ました。
その一方で、その逆の実験(自らが権限を有し、自分の意志で手を下している感覚が強まる方法での実験)を実施した際にも、その仮説が正しいことを示す結果が出ました。
ということでこの実験結果から、悪事が実行される背景としては、
「自らその実行の判断をしている感」の程度
「自ら手を下している感」の程度
が大きな要素を占めることがわかりました。
そしてここでまたハンナ・アーレントに戻るのですが、彼女はナチスによるホロコーストは、官僚制度の特徴である
「過度な分業体制」
によってこそ可能だったという分析を示しています。
先述のとおり、ヒトラーなどの狂信的な指導者が中枢で旗を振るだけでは人は死なず、銃や毒ガスを用 いて実際に自分の手で罪もない人々を虫のように殺していたのはナチスの指導者たちではなく、私たちと同じような一般市民だった、という考えを示しましたが、それでは彼らの自制心や良心はこのとき、なぜ働かなかったのか。
そこでアーレントは「分業」という点に注目します。
それは、ユダヤ人の名簿作成から始まって、検挙、拘留、移送、処刑に及ぶまでのオペレーションを様々な人々が分担するため、 システム全体の責任所在は曖昧になり、極めて責任転嫁のしやすい環境が生まれるということですね。
「私は名簿を作っただけです」
「あの時は誰もが協力していました」
「私がどうしようと結果は変わりません」
「殺していない、ただ移送列車の運転をしただけだ」......。
そして、このオペレーシ ョンの構築に主導的役割を果たしたアイヒマンは、こう述懐しているそうです。
良心の呵責に苛まれることがないよう、できる限り責任が曖昧な分断化されたオペレーションを構築することを心がけた
なんと恐ろしい。。。彼はこの人間の本質を理解して設計していたんですね。。。
そしてこれもまた、日本のサラリーマンであれば、似たような景色を思い出すのではないでしょうか?
稟議書のあのスタンプラリー・・・・
と、ハンナ・アーレントの話も含めたここまでの話で、一般に高学歴の人が集まる大組織で不祥事が続々と起こる根底のメカニズムは、
「思考停止した凡人」と「手を下した感が軽減される分業体制」の掛け合わせ
でほぼ説明できてしまうのではないか、と私は感じました。
最後に
以上、なかなか暗くなってしまう話を続けてきましたが、果たしてこのような「悪事が起こること」は避けられない現実なのかというと、アイヒマン実験は1つの希望も与えてくれています。
それは、ちょっとでも「これおかしんじゃない?」「もうやめた方がいいんじゃない?」という意見が途中で入って議論が起こったときは、100%の被験者が「かなり被害の少ない段階で」ストップしたとのことです。
このことから言えることは
人は権威に対して驚くほど脆弱だというのが、ミルグラムによる「アイヒマン実験」の結果から示唆される人間 の本性ですが、権威へのちょっとした反対意見、良心や自制心を後押ししてくれるちょっとしたアシストさえあれば、人は自らの人間性に基づいた判断をすることができる、ということです。(本文より抜粋)
ということです。
この希望は常に持っていたいですね。心の強さという点において、人間は弱い存在ですけど、こういう強い側面も持ち合わせている。そこの希望は失わないようにしたいと思いました。
と、ここまでちょっと長くなってしまいましたが、この話は最後に、 次の本文を紹介して、今回は終わりにしたいと思います。
現在のように分業がスタンダードになっている社会では、私たちは悪事をなしているという自覚すら曖昧なままに、巨大な悪事に手を染めることになりかねません。 多くの企業で行われている隠蔽や偽装は、そのような分業によってこそ可能になっていると考えられます。
これを防ぐためには、自分がどのようなシステムに組み込まれているのか、 自分がやっている目の前の仕事が、システム全体としてどのようなインパクトを社会に与え ているのか、それを俯瞰して空間的、あるいは時間的に大きな枠組みから考えることが必要です。
その上でさらに、なんらかの改変が必要だと考えれば、勇気を出して「これはおかしいのではないか、間違っているのではないか」と声をあげることが求められるのではないでしょうか。