気ままに誤読録

著者の意図とは違うかもしれないけど、自分なりの気づきを「誤読」として紹介していく、そんな読書ブログです。

服従の心理(著 スタンレー・ミルグラム 訳 山形浩生)の 「訳者あとがきの”蛇足”」 だけを読んでいろいろ思ったこと

ブックカフェで話題になった「服従の心理」の 「訳者あとがきの”蛇足”」 を読んでみました。

 

おーなるほどなー、と思いつつ、それを踏まえて自分はどう考えるのか、2つの点について考えてみました。

 

ちなみに服従の心理の本編をササっと把握したい方はこちらをどうぞ。

 

【 ↓↓ その3まで続けてお聞きください ↓↓】

 

 

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1.人はそもそも善良なのか?という話

 

ミルグラム実験からのミルグラムの主張を簡単にいうと

 

人はそもそも善良であるが、権威への服従によって悪事にカンタンに手を染める一面がある

 

といったことですが、訳者の山形さんは

 

人ってそもそも善良なのか?

 

と、大前提に問いを投げかけています。

 

例えば戦争で兵が残虐なことをするのは、必ずしも上官に命令されたからではない。近代以前の軍は、非戦闘員だろうと女子供だろうと強姦殺戮の限りを尽くし、収奪し尽くすのが基本だったと。で、それは上官に命令されたからではなく、兵士自ら率先してやったのだと。

 

世界の多くの虐殺事件をみても、権威に命じられていやいや虐殺、という例はむしろ少数派で、ルワンダの大虐殺も煽動はあったものの、誰かが多民族を殺せと命じたわけではなく、みんな多民族を殺すのは楽しいなぁと思って自発的に虐殺に馳せ参じたんだと。

 

そして我々の身近に蔓延っている暴力も。

 

今なおスポーツの現場で起きている指導者による選手への暴力、カレーを目に入れるなどの教員間の暴力、生徒間のいじめという名の暴力犯罪がなくならないのも、「それが楽しいから」という人間にもともと備わった資質によるものじゃないのか?という話ですね。

 

なので山形さんはこう言われています。

 

そもそもミルグラムの発想の出発点が疑問に思えてくる。危害を加えない、他人を傷つけてはならない、それは本当に人間のもっとも深い道徳律の1つといえるのか?

 

人間は別にそんな回路を生得的に持っているわけではなく、社会化するにつれて、社会の規範として「他人を理由なく傷つけるな」といった道徳律を後天的に修得するのである。

 

それは社会(という権威)が個人に対して出している指示の1つでしかない。

 

そしてその場合ですら、その「他人」というのは「同じ社会に属する人」という意味でしかなかったりする。

 

それなのに、それを不動の前提としていいのか?

 

これは、そういわれると、「ぐぬぬ」という感じですねぇ。。。

 

そう考えると、ミルグラムの実験結果も、指示されたからではなく、もともと持っていた残虐性が発露しただけ、という見方もできます。

 

一方で、スピリチュアル界隈などでは、人間は本来、豊かに、幸せになるために生まれてきた、ということも言われています。そういう前提に立てば、人々は本来善良な存在であるというスタンスになります。

 

ということで、この点についての感想ですが、もうこれはですね、いろいろ深く考えるというよりも、個人的な願望しかでてきません ^^;

 

山形さんの話も理解できるし、論理的に反論もできないけど、人はもともと善良な心を持つ存在であってほしい、という主観的な願望。

 

思うは招く。

 

そういう願望をもって生きていきたいな、と思う次第でございます。

 

  

2.権威側をどうにかできないのか?という話

 

ミルグラム

 

権威への服従が「人類の生存にとって危険な意味合い」を持ち、しかも有効な対応策がない

 

と述べていますが、山形さんは一歩下がって考えれば、ごく常識的に対応できるのでは?」という見解を述べられています。

 

それは

 

「個人 vs  (敵となる権威のある)組織」という構造で対抗するのではなく、「(味方となる)組織 vs (敵となる権威のある)組織」という構造で対抗すればいい

 

ということですね。

 

 

それはつまり

 

味方となる組織から「それはまずいからやめろ」と声がかかる環境を作っておけば、そのような声を無視したときに、敵となる権威のある組織は信用を失い、権威も失うから

 

ということです。

 

 

抽象化すると、外部に開かれた牽制機能を持つ、ということだと思いますが、これは非常に納得です。

 

権威への服従により、よろしくない状況が起こるのは、往々にして閉鎖的な環境においてだと思っています。

 

会社だったり、学校だったり、家庭だったり。

そこの状況が外部にさらされる状況になれば、変な服従をさせる権力は外部から批判を浴び、そんな横暴は抑制されます。

 

最近もそういう事例、ほんとに多いですよね。

 

企業の不祥事だったり、先生の暴力だったり、政治家の「このハゲー!」だったり。

 

澤円さんも、ボイシー番組での部活の教員の暴力について語る回で、今はSNSでばれる時代になったので、昔よりは良い時代になったということを仰っていましたが、私もそこは同感です。

 

そう考えると、テクノロジーの発達により、今は権力への服従へあらがう武器を手に入れた時代、とも言えますね。

 

ただ、ここでふと思い出したのが、アドラーの「3つのタスク」の話。仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスクの順に難しくなるという話。

 

SNSによる可視化という武器を手に入れても、家族やパートナーというものすごく狭い閉鎖的な環境の中にある愛のタスクだけは、外部への可視化がかなり難しい状況なのではないかと思います。

 

具体的にはDVや虐待ですが。

 

それが言葉による暴力だと外形的な証跡が残らないのでなおさら難しいよなぁと。

 

今のところ妙案は思いつきませんが、そのあたりの「服従」も、何かしらテクノロジーで解決できたらいいなぁと思ったり。

 

 

ということでつらつらと思ったこと、考えたことを書いてみましたが、異常が史上初の「訳者あとがきのみ」の感想でございました。

 

それでは、また(^^)/