気ままに誤読録

著者の意図とは違うかもしれないけど、自分なりの気づきを「誤読」として紹介していく、そんな読書ブログです。

レイヤー化する世界(佐々木俊尚)を読んで、なるほどーーーーぉっ、と思った話

いかに教養と言えるものを自分の中で増やしていけるか、ということも最近の自分のテーマであったりするのですが、これもそれを助けてくれるとてもありがたい一冊でした。

中世の帝国時代から現代への流れをすごくわかりやすくまとめてくれている、佐々木俊尚さんの一冊。

おびただしい参考文献を見るだけでも、膨大な情報をこの1冊にわかりやすくまとめていただける方がいるというのは本当にありがたいですし、そういう本は読まないとほんとうにもったいないですよね、というのが最初の読後感想でした。

ということで、今回はいつもと違って、自分の極私的感想ではなく、大局を自分の頭に染み込ますための要約として書いてみました。

 

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外部との境界が緩く、内部も緩やかにつながっていた帝国時代

中世のモンゴル帝国とかイスラム帝国とかユーラシア大陸の帝国は、国境にという外部との境界もはっきりしておらず、内部はいろんな民族が併存するという、ゆるやかに広がる形態だった。その広がりの中で平和が保たれ、交易が発達。そんな中世の時代、世界の中心はユーラシアで、ヨーロッパは土地がやせ細った辺境だった。

 

ちなみに「野蛮かどうか」と「宗教」は関係ない

現在は中東のイスラム圏にテロ組織が多く、野蛮というイメージがあるが、中世はキリスト教の十字軍のほうが野蛮で、平和なイスラム圏を攻撃していた。なのでそのように暴力的になるかどうかは、宗教的要素は関係ない。

 

新大陸発見×産業革命でヨーロッパ型の「ウチとソト」のシステムへ

中世、辺境で貧しかったヨーロッパは、交易したくてもユーラシアはオスマン帝国におえられていたので、大西洋側から周っていくしかなく、その結果、新大陸を発見。そこから大量の資源を持ってくることで発展し始める。

そこに産業革命が後押し。高い生産力を持つことができたので、資源の供給先、商品の消費先として植民地化を進める。この世界観によって、「豊かさを享受するウチ側(ヨーロッパ)」と「搾取され貧困になるソト側(植民地)」というシステムが作られる。

 

国民軍により「ウチとソト」のシステムはより強固なものへ

中世まで戦争は君主が傭兵を雇って行っていたが、フランス革命以降、傭兵がいなくなり、国民を結成したところこれがむっちゃ強かった。ナポレオン軍の活躍はそれを世に知らしめた形。この「わが国のために」という意思で戦う軍はむちゃ強いということがわかったから、民族を軸とした国民国家が主流になり、国民国家を中心とした「ウチとソト」のシステムがより強固になり、世界へ広まっていく。

日本も江戸時代までは、「日本人」というアイデンティティはなく、せいぜい「〇〇藩の人間」という意識しかなかったが、国民国家として富国強兵しなければヨーロッパの国々に植民地化されてしまうので、明治以降急速に国民国家への転換を進めた。

 

1970年くらいまでは「ウチとソト」という国民国家のシステムで先進国は発展

「ソト側」の人たちを搾取することによって成り立つ「ウチとソト」のヨーロッパ型国民国家システムは1970年くらいまでは発展し、その後停滞。

また、植民地化されていた国々も、WW2以降はこの国民国家システムで独立を果たすが、植民地された国々は、植民地化したヨーロッパの国々によって勝手に国境線を引かれ(だから国境が直線だったりする)、1つの国の中にいろんな民族が混在したり、民族が複数の国に分断されたりという形で、民族単位とする国民国家システムとの相性が悪いので、内戦などが頻発し、あまり発展せずに今に至る。 

 

国家の内側にも「ウチとソト」のシステムが形成

世界的にみたら「ウチ側」となる先進国の内部においても、「ウチ側」と「ソト側」が形成されてきた。日本の文脈だと、最近だと「正社員と非正規社員」「大企業と中小企業」「大都市と地方」「年金受給者と現役世代」など。つまり、今の時代を生きている我々は「ウチとソト」というシステムを前提とし、その価値観に基づいて生きてきた。

 

「ウチとソト」から「レイヤー化」のシステムへ

そして現代は、インターネットの発達と、「場」を作るグローバルなプラットフォーマーの出現で、「ウチ」と「ソト」の境界線は崩壊しはじめた。個人でいえば、「〇〇会社の正社員」「〇〇家の人間」といった箱のウチ側に入っていて、それ以外は箱のソトと捉える世界観から、横につながるレイヤー化という世界感へ。

ある箱の中に入っている自分ではなく、国籍というレイヤー、出身地というレイヤー、出身校というレイヤー、食の好みのレイヤー、趣味のレイヤーなど、多種多様な横に伸びるレイヤーの積み重なった集合体として自分をとらえる世界。そして、グローバルなプラットフォーマーが作る「場」を通じて、そのレイヤーごとにいろんな人、モノとつながっていく。それがレイヤー化という世界感。

 

「場」を提供するプラットフォーマーとの共犯関係へ踏み出す覚悟

行き詰まりをみせる「ウチとソト」の世界から、レイヤー化の世界へ移行するには、「場」を作るプラットフォーマーとの「共犯関係」に踏み出す覚悟が必要。

プラットフォーマーはデータを集めて、その場をより良いものへと発展しつづける。そのためには、個々人は自分の行動履歴などのデータを差し出さないといけない。この一種の共犯関係によって、「場」は発展し、そこに乗っかる我々も豊かさを享受していける。

それを嫌がってその場に参加しないというのも1つの選択肢だが、破綻し始めている従来の「ウチとソト」のシステムにしがみついても、この先の未来はしんどくなる一方。

ということでこの本の主旨は、破綻し始めている「ウチとソト」のシステムから抜け出し、よりウェルビーングな人生を送るために、プラットフォーマーとの「共犯関係」に乗っかる覚悟を持ち、「場」を通じてレイヤーで繋がっていく世界に踏み出しませんか?という提案です。

 

ただ、行政機能については国民国家的なシステムが残るのかな?という個人的な感想

この「ウチとソト」から「レイヤー化」の世界へ、というのは、経済的側面、社会生活的側面では私としては共感。そのように生きていきたいと思って、実際にシフトし始めています。

一方で、行政サービスを提供してくれる機能ですね。社会基盤を作ったり維持したりするために、税金を徴収し分配していく機能。特に思うのは、「安全の欲求」を満たしてくれる治安維持装置、暴力から身を守ってくれる装置ですね。これは国民国家に変わるシステムが思いつきません。罪を裁く法律と警察と軍隊を国民国家以外の方法で構築できるのか?

その点については、この本では少しだけ、行政の機能やデータ一部を民間に開放して(ウチとソトの境界を一部壊して)、そのデータを活用したサービスを民間が競って開発することで行政サービスを発展させる、といったことは書かれていました。それは行政機能という国民国家的機能が残るという前提の話なので、「ウチとソトの世界」が完全になくなるのではなく、「ウチとソトの世界」と「レイヤー化の世界」が共存していくんだろうな、という感想を持ちました。

 

家族関係のウチとソト

ものすごくミクロな視点でとらえると、家族関係のウチとソトというものもありますね。特に子育てや介護など。これはなぜか、「血縁者だけでなんとかしなければ」という風潮が強いと思っています。そしてその境界を壊して横に繋がっていくのが、様々なコミュニティなんだろうなと思います。

そして、コミュニティによってそこの境界を緩やかにするシェアの考え方は、境界が緩く、内部の交易が発達し、平和に発展した中世の大陸型帝国時代とどことなく似ているなぁと思い、これも「事物の螺旋的発展の法則」を言えるのかもなぁと思ったり(ちょっと強引w)

 

以上、個人的な頭の整理と感想でございましたが、時代の流れを大局的につかむという意味で、非常に勉強になる&お得感のある一冊でございました。

 

ということで今日はこのへんで。