デザイン思考の先を行くもの(各務 太郎)(ラスト)
さて、「デザイン思考の先を行くもの(各務 太郎)」、3回シリーズのラストです。
今回は、本のタイトルの通り、デザイン思考の「先」について、書きたいと思います。
自分以外の誰かが設定した課題を解決する「1→10」の世界ではなく、自ら新たな課題を設定し価値創造する「0→1」をどう作るかのお話ですね。
1.イノベーション(0→1)を起こすためのキモは「見立てる力」
まず、0→1を考えるうえでは「見立てる力」がキモになる、というのが本書の軸となる主張です。その見立てる力については、以下のように説明されています。
見立てる力とは、ふつうの人からみれば全く関係のないふたつの異なるものも、それぞれをシナリオまで抽象化してとらえることで、同じ土俵で結びつけることができる能力。
例えば作曲家がジェットコースターに乗ったら、その上下運動やスピードの緩急がメロディに「感じてきてしまう」かもしれない。パティシエがドバイの面白い建築物をみたら、新しいケーキのフォルムに「見えてしまう」かもしれない。
その人の専門性や得意分野のフィルターを通すことで、他の人には見えないものが見えてくること。それはもはやロジックやマーケティングでは説明不可能なもの。そしてハーバードのデザイン教育は今、世界を変えるようなイノベーションを起こすうえで、この「個人の見立てる力」こそが、一番重要な要素と考えている。
2.どうすれば「見立てる」ことができるのか
では、どうすれば「見立てる」ことができるのか。
まずは、イノベーションの定義でもよく言われる「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何物でもない」が大前提となり、もう少し詳しく言うと、
「革新したいこと」に対して、その要素とは関係のない「異分野の専門知識」を掛け合わせることで、思いもよらなかったジャンプを生む
ということですね。
そして、次の言葉が私にとって強く印象に残った言葉でした。
その際に注意しなければならないのは、これは単純に異分野の人をかき集めてワークショップをすればいい、ということではないのだ。
「異分野の専門知識要員」で呼ばれた人は、まず最初に自らの専門知識を簡略的にまとめ、みんなに提示することから始める。提示された側の「革新したいことチーム」の人は、その知識を見て、自らの専門分野の話として、ひたすら「見立てる」作業を始める。その逆もまた然りだ。
つまり、その場所には複数人いるにはいるのだが、結局は個人作業を行うことになる。アイデアというのは何人かの脳に同時に思い浮かぶことはない。結局最後は誰か1人が思いついているのである。
イノベーションは既知の要素の新しい組み合わせであるけれども、それはみんなで考えるのではなく、みんなでやるのは「それぞれの専門知識をテーブルの上に出すこと」であって、その先の組み合わせは個々人が自分の専門性を軸にやる「個人作業」であるということ。
「オープンイノベーション、いろいろ取り組んでるけど全然成果がでない」みたいな話をたまに聞きますが、結果として「イノベーションごっこ」で終わってしまうのは、結構このへんに原因があるのでは?と感じました。参加したことないので、妄想ですけど。
3.1人で見立てるにはどうすればいいのか?
2.では、専門知識を持った人が複数人が集まって知識を出し合い、各人が見立てることで0→1を生み出すと書きましたが、ではそういう人たちが複数人集まらず、1人で考えざるをえないとき、何か術はないのか・・・?
そのようなときは「パッションを軸にして考える」と本書では言っています。
どういうことかというと、こんな感じです。
例えば自分が教育産業に関わっていて、「既存の受験教育を革新したい」、と思っていたとする。そこに、教育とは全く関係のない、自分が「パッションを持っていること」の知識を持ってくるのだ。
仮に自分が情熱を持っている趣味として「アニメ」が挙げられるのならば、それと「教育」との掛け算を考えてみることにしよう。
既存の受験教育というのは、科目ごとに先生や教材を分けた「縦割り」の構造を持っている。一方、アニメの制作過程を思い浮かべてみると、全編にわたって背景だけを描く担当者、下書きの担当者、ペン入れの担当者、声優等、シーンごとの縦割りではなく、映像の物理的レイヤーごとの「横割り」によってできていることが分かる。
ここで「アニメの制作過程は横割りである」という知識に対して、「受験教育を革新したい」というフィルターを通して見立ての作業を行う。すると、もしも受験教育を、教科によらず、「入門」から「発展」までの横割りでの勉強法を教える塾ができたとしたら?と仮説を持ってみるのだ。(一部本文中の表現を簡略化してます)
で、なぜ「パッションを持っていること」を軸にするかというと、情熱を持てるような好きなことであれば、当然、もともと深い知識を持っているし、今後も自発的にインプットをしていく可能性が高いから、というのが理由です。
情熱をもってインプットするから、専門知識が高まり、「疑似専門家」として機能するということですね。
これを自分に当てはめるとすると、何か解決したいテーマに対し、川崎フロンターレのパスサッカーに当てはめて見立てるとか、御座候のオペレーションを参考にするとか、蒲田羽根つき餃子の羽根をヒントに見立てるとか、そういったことかなと思いました。
4.「見立てる力」を磨くにはどうすればいいのか?
最後ですね。その見立てる力を磨くにはどうすればいいのか?
本書にはトレーニング方法が4つほど紹介されていますが、一番印象に残った「ロールプレイング法」を簡単にご紹介します。
一言でいうと、「もし〇〇が△△だったら?」と妄想するということですね。
たとえば、「もしユニクロがあんパンのCMを作ったらどんなCMになりそうか?」とかですね。最近ちょっとバズってた記事の「もしもあの人が桃太郎を読んだら」もまさにそうかもしれません。「あの人」には「安倍総理」編や「Amazonのレビュー」編があって、かなりウケましたが 笑。
で、これは0→1思考に限らず、いろいろ転用できますよね。もし孫正義さんなら、この状況でどう判断するだろうか?とか。経営戦略の判断だったり、人生の決断だったり。
そしてこのパートで改めてそうだよなーと思ったのは、以下の一文です。
この妄想的ロールプレイングの精度を上げるためには、(もし〇〇だったら、の〇〇について)相当深いところまでクセや思想を熟知していなければならない。
デザインの勉強とは、極端に言えばこの引き出しの量を増やしていく作業であり、知識量こそすべてなのである。
はい、いただきました。知識大事です。たまにインプットに対して「頭でっかち」とかネガティブなことを言う人もいますが、やっぱ大事なんですよね。
この一文を読んで、水野学さんの「センスは知識からはじまる」を思い出しました。水野さんも同様に、美的センスを磨くには知識の積み重ねが大事、と仰っていた記憶があります。
アートやクリエイティブといった言葉に対しては、「ふっと頭に浮かんでくるかどうか」みたいな思い込みがありましたが、何も知識がない状態では浮かんでくるはずもなく、
知識の積み重ねがあり、それを組み合わせるという「見立てる力」によって、形になる
と認識できたことが、本書を読んだ一番の学びのような気がします。
ということで、3回にわたってお届けした 「デザイン思考の先を行くもの」、このへんで終わりにしたいと思います。
読んでいただきありがとうございました(・∀・)ノ