シェアライフ(石山アンジュ)を読んで人生100年時代に漠然とした希望が持てた話
この本からは、なんといいますか、漠然とした将来の希望のようなものを強く感じました。
多少ネタバレになりますけど、天気の子のエピソードから思うところがありまして。
天気の子の解説で一番共感したのが、「システム論」に関わる話。誰かに負担を強いるシステムはいずれ破綻するということですね。それが映画でいうところの・・・というとほんとにネタバレになるのでやめておきますが(笑)、そのメタファーを現実世界に照らし合わせると、まさに社会保障制度があるわけです。
今の日本の社会保障制度は、賦課制度であることから現役世代に負担を強いることによってによって成り立っています。でも、人口構造上、それはいずれ破綻します(一応細かいことをいうと、年金制度は続くだろうけど、今の給付レベルからは激下がりするという意味での破綻、ですね)。
で、破綻したあと、どんな世界が待っているか。
天気の子では「あんな世界」になりましたが、20年後はどんな破綻した世界になっているか。
そういうことを想像したときに、この「シェア」というものが、かなり痛みを軽減してくれるのではないかと、そんなことを思い続けながら読んだ本でございました。あくまで、漠然として、ですけれども・・・。
まずは著者:石山さんのご紹介
「シェア」というのは最近の流行りのようでもあり、ガツガツした強欲の反対にあるどちらかというとゆるふわな印象を受ける言葉でもあるのですが、著者の石山さんはどんな人かというと、ゆるふわな人ではなく、生粋のガチなシェア人間でございます。
「生粋の」というのは石山さんの生い立ちによるものでして、本文を引用すると、幼少期をこんな感じで過ごされたとのことです。
1人っ子で生まれた私ですが、私の家はいつも賑やかでした。朝起きると知らない人が家に寝ている。世界中を旅した父は、いつも旅先で出会った友人を連れてきては家に泊まらせたり、宴会を開いたりしていました。
仕事が大好きだった母は、産後2週間で仕事復帰をして、海外出張へ飛び立ち、私はほぼ母乳を伸ばすに育ちました。でも、母が形成した近所ママのネットワークで、隣の家のインターフォンを押せば夕食を食べさせてくれる環境がありました。
私は、自分を本当の娘や妹のようにかわいがってくれる近所の家族や、日々家に出入りする父の友人たちなどのたくさんの繫がりの中で育ってきたのです。
そんな石山さんによる、これからの世界、社会における「シェア」の可能性について述べられている本でございます。
2種類の”シェア”
昨今、シェアリング・エコノミー(以下、シェア・エコ)という言葉が台頭していますが、この本ではその概念は大きく分けて2種類あると言っています。
1つは資本主義的なシェア・エコ。エアビーとかウーバーとかメルカリとか、あのようなサービスですね。新たなビジネスチャンスとしてのシェア、少し下衆な言い方をすると金儲け主義的なシェア。これはこれで世の発展のために大事です。
もう1つは、お互い様・助け合いの精神に基づく、持続可能主義的なシェア・エコ。社会での生きやすさを育む、やさしいシェア・エコとでも言いましょうか。そういやウーバーはCEOが超パワハラ的なことをやっているというニュースを読んだことがありますが、それとは真逆な感じですね。日本ではあまり注目されていませんが、欧州、韓国などはこちらの思想によるシェア・エコの形態が発展しているそうです。
そしてこの本では、後者の「やさしいシェア・エコ」について、さらにはそれをさらに範囲を広げた、エコノミーにつながらないものも含めた「シェア全般」についてについて書かれています。
私も非常に共感するトピックが多かったので、いくつか印象に残ったことを書いてみたいと思います。
人生100年時代への備え・セーフティネットとしてのシェア
私がこの本を手にとったのも、やはりこのテーマについて関心があるからなんですね。
人生100年時代に向け、私は昨年サラリーマン生活を(一旦)終了し、自分のやりたいことを仕事にするという冒険を始めたわけですが、それと並行して、ライフワークとして人生100年時代を仲間とともに生きていくコミュニティも立ち上げました。
なぜコミュニティを立ち上げたかというと、まだはっきりと言語化はできないのですが、これからの人生100年時代は未知の領域で個人で突き進むには不安が大きいので、やはり心で繋がる仲間が欲しかったんですよね。そして、同じように思っている人もいるだろう、ということでとりあえず立ち上げてみました。
そして、この本を読んだところ、「そうそう、そういうことを漠然と思ってたんですよ!」ということが言語化されていましたので、いくつか紹介したいと思います。
現在は「安心のパラダイムシフト」とでもいうべき状況が起こっています。そんな先行き不透明な時代において、確かな安心を買える資本こそ、「つながり」です。
つまり、老後に向けて貯めていくものはお金ではなく、つながりです。これまでの私たちは、家や保険など、お金を払って安心を買っていましたが、これからは「つながりで安心を買う」時代になっていきます。
なにかあったら手を差し伸べてくれる人が思い浮かぶこと。明日、もし地震が起こってもお米を届けてくれる人や、泊まらせてくれる家の人のつながりがあること、信頼できて気軽に頼れるコミュニティがあること。そのようなつながりを増やしていくことが、これからの時代を生きる上での重要な資産になるのだと確信しています。
このような、これからの時代のセーフティ・ネットの側面としてのコミュニティ。
このような動きはどんどん広がっていくんじゃないかなと思いますし、私も参加するみなさんがそんな「つながり」を感じられるコミュニティにしていきたいなぁと思いました。今は始めたばかりなのでまだ願望だけですが(^^;)
家族の概念を変えるシェア
60人もの人が集まるシェアハウス”Cift”で生活されている石山さんは、子育ても介護もみんなでシェアするような生活を送られています。そんな石山さんが提唱する「これからの家族の概念」については、ものすごく共感しました。
つまるところ、家族とは、血縁関係や社会的な枠組みではなく、「感情の拡張」でとらえられるものなのではないでしょうか。
家族は誰にとっても重要であるいっぽう、その「家族」という社会的な固定観念が、ときに人を苦しめ、自由を阻む制約になりうると思います。(中略)家族という概念を拡張した先に、より平和な社会を築くことができるのではないか。
満員電車で困っている親子も、「全部自分たちで解決しなきゃいけない」と疲弊してしまう共働き家族も、孤独で命を絶つという選択をする人も、もっとみんなで手を差し伸べ合えば、「救い合う」ことができるのではないか、そう信じています。
これを読んだときにですね、私は映画 ”万引き家族” を思い出しました。
多少ネタバレで恐縮ですが、あれは疑似家族をテーマにした映画で、本当の親にネグレクトされていて”万引き家族”に保護されていた小さな女の子が、最終的に”本当の親子に戻るのが一番”という世間の常識に基づいて実の親に戻され、またネグレクト生活に戻って不幸になる、なんていう結末になってしまい、なんともやり切れない思いが残りました。
リアルな社会でもこのような「血縁だけでなんとかする」という空気に苦しんでいる人、かなりいると思うんです。特にこれからの超介護社会なんて、「血縁家族だけでなんとかする」やり方だと、マジで破綻が目に見えています。そういう意味で私にとってもモロに当事者としての問題なので、コミュニティで何かできないか、結構本気で模索していきたいと思っています。
学びのシェア
この本では「誰もが先生であり、誰もが生徒である」新しい学びの形というのが提唱されていて、これはまさに私がコミュニティの中でやろうとしている「寺子屋」そのものですので、これは本当に強く共感しました。
学びをシェアという側面で捉え直すと、私がコミュニティでやろうとしていることは、知識と経験のシェア。
たとえば、グロビの「卒業生の活躍」などで取り上げられる派手な経験じゃなくても、「この話、みんなにシェアしたら役立つだろうなぁ」という生き方をしている方が結構います。なので、その生き方、経験をぜひみんなでシェアしたい。
そうすることで、「そういう生き方があったんか!」という気づきが得られて、人生100年時代の可能性を拡げてもらえると思うんですよね。
これは今後、どんどんやっていきたいです。
最後に
このような”優しいシェア”の世界が広がっていくために、一番キモとなるものは何か。
私は、
- ”シェアのマインドを各人の中でどう育んでいくか”
- ”シェアのマインドをどう社会に広げていくか”
といった部分ではないかと思いました。
戦後になって核家族化が進み、それに合わせら住居がどんどん建てられ、つながりの分断が進んでいったのが戦後復興なんだろうなと思っています。かくいう私も、現在住んでいるマンション、上下両隣どころか、誰一人としてどんな人が住んでいるのか知りません。分断極まれりです(^^;)
そんな分断の状況から、どうやってシェアの世界を広げていくか。
でもですね、、、
日本人はそんなに遠くない昔、長屋で醤油の貸し借りをするなど、「お互い様精神のシェア」「周りの人は信頼できる」という文化が普通にあったんですね。
だから、ちょっとしたきっかけがあれば、お互い様の世界はぐっと広がっていくと思うんです。
ということで、自分事としては、長丁場の取り組みになりますが、立ち上げたコミュニティをこの本に書かれた状態に少しでも近づけられるよう、試行錯誤していきたいと思います。
では、今回はこのへんで。