気ままに誤読録

著者の意図とは違うかもしれないけど、自分なりの気づきを「誤読」として紹介していく、そんな読書ブログです。

かもの法則(西田文郎)

ヒロシシリーズでがっつり書きすぎたので、今日はライトに。

イメトレの第一人者、西田文郎さんの一冊でございます。

西田さんのお名前は以前から聞いていましたが、ようやく読みました。お名前は何で聞いたんだろう?イメトレだから、尾崎里美さんのセミナーかな?

尾崎さんといえば、2年前に行った大自然の淡路島のセミナー、よかったなー。名刺で割り箸、ぶった切ったなー(´▽`)。セミナーじゃなくていいから、また淡路島行きたいな。実家からだとひょいっと行けるし。

話は戻って「かもの法則」です。

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「もしかしたら、俺にもできるかも」の「かも」ですね。

できる「かも」と思うことでグンと世界は変わるということが書かれているのですが、「それはなぜなのか?」についての説明が、脳科学的な見地や、いろんな事例からのお話とか、とにかく深いんですね。

ちょっと今整理することはできませんが、そんな私が頭の中で整理できていない今の状況も説明されているという(笑)

1回読んだだけなので、ひとまず右脳で未知の情報をキャッチした状態で、これまでの知見、脳科学のことで学んだことや、アドラーの目的論とのつながりとか、いろいろ統合されて、そういうことか、という理解が一段を深まりそうだな、という感覚だけが今はあります。

でもいま1つ言えることは、いわゆるアファメーションにおける「かも」の効用。アファメーション、イメージトレーニング、脳科学の活用、引き寄せといったその辺の文脈では、未来のなりたい姿で「自分はこうです」と今、言い切りましょうみたいなことが言われます。そうするとそれがセルフイメージになって、実態がセルフイメージにどんどんイメージに近づいていくという話ですね。「Fake it, untill you make it」も同様の文脈です。

でもこの場合ですね、顕在意識がこんなふうにチャチャを入れるわけです。

 

「今のお前全然そんなんちゃうやろ」

「そんなんなれるわけないやろ」

「そんなんできるわけないやろ」

「一体どの口がほざいとんねん」

「怒るでしかし」

 

そうなると、心はすっかり「できないかも」になって、努力することもなくなり、結果、何も変わらない、ということになるんですね。

 

それがですね、末尾に「かも」をつけることで、言い切りじゃなくなるわけですね。

そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。

そうなると、顕在意識も

「ま、まあ、可能性は0%とは言い切れんしな」

と否定モードが弱くなるわけですね。
そうなると、顕在意識の邪魔が入らないので、「できるかも」という期待感をもって努力し、結果を生み出すというわけですね。

 

西田さんは、この「かも」つきの表現でも脳の報酬系の神経伝達ルートが元気になって、ドーパミンが脳にあふれかえって、やる気が湧き出てきて、努力しまくるようになるとおっしゃっていますが(一回読んだ解釈です。間違ってたらごめんなさい)、私が思ったのはもう1つのこと。

 

イメトレやアファメーションなどの世界では、「脳は否定形を理解できないから、肯定系で言いましょう」というのが定石的なことで言われているのですが、「~~しない」といった否定形が理解できないのであれば、「~~かも」も理解できへんやろと。だったら、「かも」を末尾につけても脳をだますという意味では何の問題もないし、「できるかも」と意識するだけで、報酬系が活性化してドーパミンがあふれるのであれば、そらええことですわなと。

 

というのが、1回読んで思ったところですが、もう何度か読み返して自分の理解を深めたいなと思います。

ただ、問題なのは・・・

これ、図書館で借りてきた本ですが、付箋を貼りまくってしまいまして。

これは手元に置いておきたいと思ったので即Amazonで購入したのですが、このあとこの膨大な付箋の張替え作業という、確定申告にも勝るとも劣らない作業(嘘)が待ち構えているわけでして。小人さんでも呼びますか。

 

となんだかんだまたいろいろ書いてしまいましたが、「これは読んでみたい”かも”」と思った方は、手に取ってみてはいかがでしょうか?